文系が大学に行く意味とは

 よく言われていますね。文系はもはや(そもそも?)社会を維持するのに必要ないという言説が後を絶ちません。ちなみに今回もMBTIはあまり関係ありません。

 元々こういう声は常日頃くすぶっていたのですが、近年の技術革新に伴いさらに強まってきた感じがあります。日本の経済的な衰退と結び付けられて、「今の時代では理系でなければ価値を生み出せない」という言説をばらまくような人間は今となっては当たり前に目にします。お隣の国韓国では深刻な新卒就職の不調と相まって大学生自ら「文系ですみません(ムンソン)」と自虐したりします。

 もちろん、日本や韓国がまだ発展途上あるいは絶頂期にある段階ではそういう声は限定的でした。経済が拡大基調にある時代においては文系学生にも使い道があるものの、経済の縮小段階に至ると使い道のない人間扱いされてしまうのです。

 これには、世間が文系大学生の事を「多少教養のある奴隷予備軍」と捉えていることが背景にあるのではないかと考えています。本当にそうなのでしょうか。いや、実態としては少なからずその通りなのですが、この少子化の時代にあって文系大学生の事をそのように捉えることが本当に社会のためになるのでしょうか。

 名目的にはアカデミックな観点から文系大学生の意義についてフォローされることが多いですが、現実的に大半の学生は卒業後就職しますし、必ずしも専攻を活かした職に就きません。このような擁護は言わば苦し紛れであるように思います。であれば、実利的に考えると文系大学生はやはり存在する価値はないのでしょうか。

 あ、ここではそれなりにまじめに勉強した文系学生の話をしています。遊んでコミュ力を鍛えるのも大事かもしれませんが、そういう話ではありません。

1.社会での文系大学生の扱われ方

 卒業後、基本的に営業職や事務職に就きます。一般的な事務職は例えば簿記検定などを取得すれば高卒でもできますから、期待されるのはバリバリの営業だったり事務の管理職であるように思います。

 とは言え、こういった人間もやはりたたき上げの高卒で代替可能ではありますから、理系専門職ほど大卒が「独占資格」的な扱いを受けることはありません。

 多少なりとも就活の局面で営業・事務において大卒が優遇されるのは、こういう実利的な面よりは、「大卒が多いと会社の格が上がる気がする」だったり、「とりあえず大卒は出世させとこう」というような、世の中になんとなくある空気に流されているだけな気がします。

 だとすれば、文系大卒に実質的な価値は存在しないものとなり、世の中の空気で、世間体で、何となく文系でも大卒に行った方がいいという雰囲気が文系大卒の価値を担保しているだけということになります。

 文系大学生の存在意義についてはネットだったり紙面だったりで、少なからず誰かが論じていることも多いですが、僕が見る限りこの点に関しては暗に認めてしまっているケースが多いように感じます。つまり、社会においてはほとんど実践に活かせていない→だから文系の大学には実践的な人材を育成する能力がないと認めてしまっているのです。

 繰り返しますが、「(社会への貢献はさておき)学びたいから文系に行く⇒だから価値がある」という言説は負けだと思っています。本来価値のある人材はあらゆる点から見ても価値があると思います。文系の価値を考えるのであれば、社会にとって価値があるからこそ文系学問への門戸が開かれているに違いないという視点から考えるべきです。

 2.社会の言う専門性が抱える矛盾

 しかしながら、社会で数学的な素養を持つ理系人材が優遇されてきているのは自明です。まず彼らがなぜ優遇されるのかを考えてみれば、文系学問の意義も再定義できるかもしれません。

 前述した日本社会における「理系偉い」議論には、理系には「文系とは違って実利や職業に直結する専門性があるから偉い」という考えが背景にあります。すなわち、数学や理科のセンスがなぜ偉いかというと、「お金を生み出すから偉い」という考えです。

 昨今GAFAなどのIT企業やAIなどの技術革新に伴い「数学が必要っぽい事」が莫大なお金を生み出すありさまを見てきた人たちからすれば、そういったものに飛びつきたくなる気持ちは分かります。そして、それを自分ではない他者に求めたくなる気持ちもわからないわけではありません。

 そうなのでしょうか。現に最上位のヘッジファンドコンサルタントといった平均年収が数千万にも上る企業が理系人材を欲しがる理由はそこにあるのでしょうか。世間の外野たちはそういう最優秀層の外資が理系人材を買いあさる姿を見て、「理系が必要!文系は不要!」と叫んでいます。

 もちろんそうではありません。彼らは理系人材の価値を「彼らの専攻が金になるから」という理由でほしがってはいないのです。その実としては、彼らの数学的思考力に魅力を感じています。「数学的思考力」と「数学を用いた専門性」の違いを理解している人はあまり多くありません。理系だから偉いというのではないのです。

 3.数学的思考力とは

 その数学的思考力とは何でしょうか。これは、「問題意識に対して正しく仮説を生み出す能力」であるように思います。フェルミ推定が良く持ち上げられますがそんな感じです。

 こういうとざっくりに聞こえるかもしれませんが、日々塾講師として生徒と接していると、「今の状況から当然予測されるべき未来」を見通せない生徒が多いことに気付かされます。現実からより可能性の高い未来を推測するということに慣れていない人はあまりにも多いです。

 現実に即して合格までに自分に足りない能力が何かということを考える能力があまりに欠けているのです。その結果、長文が読めないからとりあえず英単語に一日3時間かけようというような的外れな対策に走ります(生徒の力不足である点を改善できない私の指導力不足については別途考える必要がありますが……)。

 数学的な思考力が不足すると、問題にぶち当たると「とりあえず」と考えるようになってきます。これでは自分の実力と向き合う事から逃げているのと一緒です。「とりあえず誰かが言っていたから」「とりあえず単語力は大切だから」こういった思考では、いつまで経っても問題解決には至りません。最終的には「とりあえず」ではなく自分の状況を分析した上で本当に効く特効薬を探し出す努力をする必要があります。

 現実社会の問題を解決する上では、対症療法ではなくこういった「本当に効く特効薬」を探し出す熱意が何よりも大事でしょう。ここでは、現実に存在する事象から地道に手がかりを積み上げていく数学的な思考力とそれをおろそかにしない意識が求められます。

 「数字の妥当性は現場が考えるものであって俺は報告を受ける立場だから」「専門的な難しいことはよくわからないから」「俺は偉いから分かりやすく伝えろ」こういった態度が日本社会の硬直化を生んでいると思います。大事なのは、そういった「専門的っぽいこと」でもなんとか自発的にデータを読み解こうとするその姿勢なのです。「数学は暗記が少なくていい」と言われることがありますが、そういう科目が現実社会で重んじられる理由は、そういうところにあります。「ひらめきが素晴らしいから」とか「金になるから」ではなくて、「難しいデータにも臆せず地道に理解しようとする」姿勢を身に着けることが出来るからなのです。

 数式と言うのは、「誰がどう見てもそうだ」という客観的な説得力を担保するツールにすぎません。実は世間でもてはやされる数学的思考力というのは数式を自在に操る能力とはイコールではないのではないかと思っています。

 3.科目の「数学」じゃないと身に着けられないのか?

 もちろんそんなことはないと思います。文系大学でも、ゼミだったり面白いと思える教養科目に出会ったときは、試験やプレゼンで「教授をあっと言わせてやろう」と思える時が来ると思います。ありとあらゆる仮定を思い浮かべて、どんな試験問題だったり論文課題が来ても対応できるように考えることでしょう。とくに学士の場合、文系は理系と比べてぼんやりとした日々の問題意識を掘り下げることが大切です。深い専門知識がなくても、周りから見て「確かにそれは問題だ」と思えるような論題を決めることが出来ればいいのです。その上で、何か一つ誰かをあっと言わせるような結論にたどり着く必要があります。

 そのためには、問題意識を見つけ出す能力だったり、突拍子もなかろうが誰の目にも妥当だと思えるような結論に行きつくための論理力が求められます。意外とそういう面では(学部の範疇では)理系以上に日頃から周囲にアンテナを張っている必要があるように思います。「何となく皆が思っている事を誰にでもわかるように、納得できるように説明する」というのは、まさに前述した数学的な能力を駆使しなければ実現できないことだと思います。

 アカデミックなレベルで言えば学部の勉強など「お遊び」なのでしょうが、それでも社会に出ると、教授以上に日々問題意識を抱えているような人間に出会うことはほぼありません。隠れた事実の重要さを周りに気付かせる能力だったり、当たり前だと思っていることを結び付けて新しい理解に到達するような能力は実は現実社会だと相当に重宝されますが、日々の雑務に追われて大多数の社会人はそれを「邪魔くさい妄想」だと片付けてしまうのです。結局言われたとおりに事をこなしていれば、本来向き合うべき課題から目を背けていてもそれなりに評価されることが多いです。

 社会では数式で扱える範疇の論理的思考力というのは意外と肩身が狭いものです。だってみんな苦手ですから。真に変革をもたらすためには、そういった思考が苦手な人間を説得して、まとめ上げて、何かを実現に移すという途方もない作業が求められます。ただそれは社会で成功するためには数学的な思考を放棄することが最優先だということを意味しません。あくまでも客観的なデータから導き出される創造的な結論に価値があるのです。

 そういう思考が必要なのは理系も文系も一緒でしょう。むしろ学部レベルで言えば文系の方が一見「どうでもいい」と思えるような問題に真摯に向き合ってきた経験があるからこそ、社会で応用の利く思考が出来るかもしれません。

 4.文系人材はどのように活躍したらいいのか

 文系の学問領域においては明確にイノベーションのために必要な問題意識はあまり存在しません(困っている人がいないので)。そういう領域で現状を結び付ける努力こそが社会を前進させるフックになるものだと考えています。

 僕の例でいうと、お世辞にも社会的に活躍できるような専攻ではないのですが、当時ばかばかしいと思えるようなことを深く考えた経験は確実に実践の場で深く根付いています。なぜなら、世の中の課題と思えることの大部分はばかばかしいと思えるような事項にどう対処するかが解決へのキーとなるからです。これまで4度転職して、すべてにおいて異業種でしたが、大学時代に深く考えてきた経験は間違いなく活きています。塾講師だってそうです。塾講師としても平均的以上に活躍出来ているという自負はありますが、それは常日頃社会だったり、それ以上に大きな問題意識に対して「考えて続けているから」という理由に他なりません。改革著しい受験業界ですが、制度上の些細なマイナーチェンジなど朝飯前なのです。

 直ちに根本的な解決となるとは思えないことでも、一生懸命考えていれば次第に解決されていきます。現代社会において、こういった事項を深く考えられる人間がなにより不足していると実感しますし、大学側からもそういった問題解決能力を重視する姿勢は大いに感じています。

 「問題解決能力」と一言にいっても、その範囲は日本の政治制度から私のささやかな職務上の問題に至るまで多岐にわたります。それでも「ちょっと考えたらわかるだろ」と思うのですが、ちょっとも考えたこともない人間にはそもそも無理な話なのです。

 ここまで論を進めてきた以上逃れられない話ではありますが、「文系の学問が直ちに社会に活用できるわけではない」ということは認めざるを得ません。ですが、現代社会はそういった「考えてもしょうがない」問題に満ちています。こういった問題に真面目に向き合って初めてイノベーションだったり社会的な変革の機運が広まっていくのだと思います。

 日本の理系人材が活躍しているという事実は否定のしようがありません。しかし文系大学出身だからと言って世間が文系学生たるもの「資格を取らないと」だったり、「遊んで人脈を広げないと」と考えるだけでは人材を浪費し続ける一方です。

 生活において問題意識を掲げながら、ゼミや卒業論文において考えつくしてみるという経験こそが、文系大学生が生きる道であるのではないかと思います。張りぼてではなく、そうやって磨き上げたコミュニケーション能力を企業は皆さんが思ってるより評価してくれます。

 世間の他人事な考えに惑わされず、大学生になったからには一生懸命課題に挑戦してみることが大事だと思います。