共通テストなんてクソだよクソ

 これまでに何度も言っているのですが、共通テストは極度にNに寄った試験形式となっています。

 A,B,C,Dと来て次はEであることを想像できることを良しとしている試験です。A,B,C,Dの中に答えがあることもあればないこともあります。これは、明らかにN型の人間を優遇した試験と言えます。雑魚科目の理科基礎でさえ、これまで真面目にインプットした努力を脇において生意気にも応用力を見てきます。

 こう見るととても合理的で「使える」人勢を選別することに優れた試験であるように見えるかもしれませんが、実際のところ一般的な社会の構成員として有用なのは大抵の場合S型の人間です。格差社会だの色々言われていますが、現代日本は何だかんだ、しなければいけないことをコツコツこなせる人間はそれなりに報われるようになっています。

 大学受験でもそういう人間はある程度報われるべきでしょう。彼らは旧センター試験であれば存分に力を発揮できていました。また特段S型有利というわけでもなく、要点を抑えるのが得意なN型の人間はセンター試験程度であれば軽々と突破してきています。本当によくできた試験だったと思います。

 それが共通テストに変わってからは、S型の人間はことごとく苦戦を強いられているのです。これはどういう意図に基づくものなのでしょうか。

 おそらくは、実戦での応用力に基づいた試験を課したいという設問側の意図があるように思います。文部科学省の資料(令和5年度大学入学者選抜実施要項について(通知)」では「必要な知識・技能,思考力・判断力・表現力等を適切に評価する」とありますが、共通テストを見る限りこれを「とっさの判断が利く人材」であると解釈して作問しているような印象があります。

 また、個別学力検査については「複数教科を統合して学力を判断する総合的な問題の出題など,工夫に努めることが望ましい」ともあります。

 上記2点は、MBTIで言うとN(特にNe)的要素を重視していると考えられます。まじめに教科書や参照書を読み込んできた人間よりも、発想力を暴発させて様々な領域にまたがって考えられる人間こそ望ましいというのです。確かに、過去の共通テストの問題を見ても、教科的な知識に縛られない問題が複数出題されることはめずらしくありません。

 たしかに、ただのがり勉よりも想像力の豊かな人間の方が社会で通用すると考えるのは自然であるように思えます。

 しかし、上記のようにお国がこのように持ち上げるNe持ちに対して世間は一貫して冷淡なのはいうまでもありません。ADHDなんかみんな嫌いなんですから。

 そして、想像力が暴発しがちな人間(Ne持ち)は、集中力が低いので比較的内申が低い傾向にあります。前述の文部科学省の資料では「一般選抜のほか,各大学の判断により,入学定員の一部について,多様な入試方法を工夫することが望ましい。」とありますが、大抵の場合Ne持ちは推薦との相性が非常に悪いです。つまり、お上はNe持ちを一般入試では持ち上げる一方で、入試制度全体としては排除する方向に向かっているのです。

 政策立案者側の考えを要約すると「優秀な人間の定義にNe的な要素が当てはまるので、ペーパーテストでNeが強い人間が一部引っかかるのはやむを得ないとしても、ADHDはマジ勘弁」ということでしょう

 これだけ見ると、「なんだ、一般入試と推薦入試で入れたい人間を分けたいのだろうな」と納得できないこともないのですが、おそらく政策立案者はそこまで考えていないでしょう。上記の資料にはそういった記載がどこにも見当たらないからです。彼らはあくまでも、「やることはしっかりとやり、ボランティアなどの課外活動にも尽力しつつ、いざ試験となると発想力と武器に正答にたどり着くまで全力を尽くす」という完璧人間をモデルにしているのでしょう。前述の資料が「各大学は,入学者の選抜を行うに当たり,公正かつ妥当な方法によって,入学志願者の能力・意欲・適性等を多面的・総合的に評価・判定する。」としか述べていないのですから。公正かつ妥当って何なんでしょうね。

 「あ、自分はS型だから推薦入試で頑張ろう」という訳にもいきません。制度設計自体がまずもって完璧なスーパーマンを求めるようになっているのですから、もちろん推薦や小論文でN型的要素を求めてきます。ただ、S型が推薦入試に有利で一般入試に不利なのは間違いないですから、S型で高校3年生になって本気を出し始めた生徒はもはや「手遅れ」という扱いになります。どんなに頑張っても、共通テストがN型を念頭に置いたものですから、どうしてもハンデを背負ってしまうのです。

 本当に今の若人の将来を考えているのならば、入試制度全体において受験生に求めるレベルがかつてのセンター試験程度のレベルに戻ってほしいものだと日々考えています。

 センター試験は確かに暗記重視ではあったものの、聞いてくるレベルは確かに覚悟のある人間にとってはN型だろうがS型だろうが当然暗記しているべき量に留められていました。共通テストのような(S型にとっては)嫌がらせだとしか思えない問題はほとんどありませんでした。その人の努力量を測る上では、これほど優れた試験はないように思えます。それでいて、N型的思考で解ける問題、すなわち最小限の暗記+洞察力で解ける問題も多かったところにもとても魅力を感じます。

 社会人として必要な思考力や表現力を求めるという声はありとあらゆるところで叫ばれます。それこそ官僚の世界はもちろん、就職活動の現場、新聞記事などの談論などです。でも、それは大学生が社会人になって、「本当に必要になったときに学んで習得する」ものではないでしょうか?つまり、そういった地に足のついた学習ってS型が得意とするようなものではないでしょうか。少なくともこの少子化の時代、社会に出た事のない高校生を捕まえて「今の時点での発想力」だけで全てを測るべきじゃないと思います。努力できた人間が栄冠をつかめるような世の中である事を教えてあげねばなりません。

 それを、現在の一般的な入試制度は「S型は融通が利かないから切り捨てる。N的要素も優秀なS型なら仲間に入れてもいい」と言っているとしか思えない試験問題を課してきています。N型をありがたがるのは結構なことですが、世の中がN型だけでは決して成り立たないのは自明です。人はそれぞれ素晴らしい点を持っていて、それを各人の能力に応じて社会で活用することにとても深い意義があります。知性を画一化することが、なぜ国家のためになるというのでしょうか。そういう事が言いたくてこのエントリーを書きました。

 MBTIは半分はエンタメ的な要素で流行っているかもしれませんが、少なくともN型とS型の違いを知っておくことがとても大切なことがわかると思います。